標準方式の適切な設計とみんなで共有できることの効用
何でもいいですが目標を決めて、それを達成しようとした場合、
方法は幾通りか考えられることでしょう。
手順としては、以下のように書き出すことができるでしょうか?
1.目標の設定
2.現状の認識
3.目標と現状の差分の把握
4.差分を埋めるために利用できる資源の把握
5.不足事項の認識と利用の可否
6.目標到達までの時間的・経済的コストの把握
7.実行手段の立案
8.実行(及び、適宜修正)
9.目標達成(もしくは、断念)
各フェーズ、重要なことはそのとおりなのですが、多くの場合に改善の余地が残っていると考えているのが、7、8.の段階のところです。
一言で言ってしまえば、”誰が”、”何を”、”どのようにやるか”を決めることです。
担当者が求められることをどのようにアウトプットするのかということでもあります。
(イメージ)
担当者 → 行為 → 成果物
その際、担当者に必要とされる知識が備わっていること、
求められる技術を身につけていることが大切です。
それがなければ、適切な成果物は期待することが難しいです。
これは結局のところ、行為がどのように展開されるかということと同義です。
ですが、人間ですからどんなに単純なことであっても、
向き合う際の考え方や方法の選択、理想とする形は異なるでしょう。
なので、当然に実施手法、そして最終的な成果物に差異が観られるでしょう。
これが不正解というわけではないですが、”適切”なのかどうかは難しいところです。
できる限り、成果物は一定の水準にあるほうがいいでしょうし、方法は最適な方法を考えて、チームワークであるならば、メンバーと”並列化”したほうがいいでしょう。
物事の取り組み方、考え方を共有してみんなで利用することができれば、
どのように方法を選ぶのか、何をどのように作り上げるのか、ということについて、
”標準化”することができるでしょう。
これは何事も形式を重視するということではありません。
実質的なことが重要なことはもちろんです。
ですが、社会の多くの場面で実質的なことに良くない影響を与えるような方法が取られているように観察されるのです。
方法や成果物の標準化(もちろん、ヤリ過ぎはいけませんが)は実質的なことに多くの資源を割くことができるようにするための最適な方法のように考えています。
意見を交換しあって、より良い”カタチ”を作り上げられたなら、
より良い社会を作り上げられると思うのですが、如何でしょうか?