わかってもらう努力

阿吽の呼吸、以心伝心といったように、多くを語らずとも察することが日本では美徳とされてきましたし、今もそうかもしれません。

 

「言わなくてもわかってくれよ」、「多くを語らずとも察してくれよ」的な文化が形成されてきましたし、黙して語らずは望ましい姿勢とされてきました。

 

でも本当は、昔からみんな色々なことを思ったでしょうし、誰かに気持ちを伝えたい、わかってほしいといった願望はあったように思います。

伝えるための手段が極めて限られること、話すと言ってもご近所や友人では”和”を乱すと捉えかねないといった自重があったのではないでしょうか?

 

自分の暮らす共同体で求められる生き方が、とても強い影響をもって個々人の言動を制約するというわけです。これは共同体の構成員が少なくなるほどに顕著であるようです。

 

しかし、現代のSNS全盛の時代にあっては、自分の意見を述べることのハードルがすごく下がってきているようですし、興味関心を抱いたことに対してよりフランクに意見を発信しているようです。

 

とても良いことだと思います。

多様な考えをもった人間が暮らす社会で、お互いの不理解に基づく争いが増えるよりは、それぞれの立場や考え方を尊重し合えるような環境の醸成が不可欠です。

 

多様性は社会の成熟度を図る指標ですが、その前提としてお互いの考えを自由闊達に表明できること、対話ができる環境をつくることは重要です。

 

今はそれが容易になっていますし、この文化はより発展していくように思います。