サピア=ウォーフの仮説的な雑感

サピア=ウォーフの仮説

ある言語を母語とする人の認識・思考はその言語によって影響されるという説。言語相対主義ともいう。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

 

特定の人物の思考の背景にあるもの、それは周囲の環境であったり、生得的な要因であったりするのだろうが、言語に注意して考察してみたのが上記のサピア=ウォーフの仮説です。

 

私は様々な映画を鑑賞した際に、母語(日本語)を第1言語とする人間が作成した作品とそれ以外の文化圏に属する人間が作成した作品とでは、異なった印象を受けることがあります。それは上手く言葉に出来てはいないけれど、微妙な”食い違い”のようなものを感じるときが度々あります。

 

映画『虐殺器官』では特定の文法の影響により人間を虐殺に駆り立てる器官が生得的に人間に備わっているという設定です。当該機能の発現は特定の法則に従えば、特定の言語だけでなく、どのような人間にも発現し得る、ということになっています。

 

普遍的な要素が人類にあるけれども(例えば、美味しいご飯を食べたい、美しいものを観ると感動する・・・)、言葉ではうまく説明できない(多分、それを発見できていないだけだと思うけれど・・・・(´;ω;`))言語の影響により生じた異なる言語を操る人間同士の差異はどこかしらにある気がします。

 

サピア=ウォーフの仮説的な事は何となく、日常の生活の中でも感じることはあるし、それは日本に暮らしていても、例えば地方で暮らしている人間と田舎で暮らしている人間、優等生とヤンキーといった比較的対照的なパターンを観察してみると、異なる前提で生きていると感じます。

 

それは言語、もしくは何かしらで生み出された雰囲気なのでしょうが、それが何かを特定するのは難しそう・・・やってみると退屈しないのかもしれませんが。