公平な選抜 or 探究活動 ? おそらくは功罪同居する
中国で千年以上も続いた役人の登用のための選抜制度として有名な科挙ですが、
現代の受験制度にも通じるところが多いようです。
概要は以下のリンクでざっくりと。
本来、学問というものはよりよく生きていくために、自分を”耕す”側面がありますが、
学問を社会の一つの制度として機能させる場合、何が求められるでしょうか?
試験制度というものは公平な選抜のしくみである必要があります。
誰がみても判断がブレることがない客観性が要求されます。
ですから、主観が混じってしまうような分析、社会をどのように考察するかといったことよりも、「〇〇に当てはまる単語はなにか?」、「△△の起こった年を答えよ」、といったような”情報”を問うほうが、フェアです。
科挙の受験者の目的は明確です。
試験に受かって官僚となり、利得を得ることです。
(社会に奉仕するという立派な志がある方もいたでしょうが)
まずはともあれ、試験に何が何でも受かることが大切です。
それで何が起こったのか?
学校というものが受験予備校になったり、参考書が出回ったり、パターンで解くみたいなハウツーが流行したそうです。今の受験の制度と同様ですね。
大量の行政文書を処理しなければいけない官僚に求められることが、
学問の本来の目的とするところと相容れないのです。
処理能力は客観的に評価しやすく、そしてそれは必要なところでもあります。
問題は他の能力も同様、場合によってはそれ以上に大切であるのに、
客観的な評価、公平に評価することが難しいために、そのような知見を有する人材を適材適所に社会に組み込むための仕掛けがなされないことです。
さて、これをどうみるか?、そこが問題です。
時代によって適切な方法は違ってくるということで考えれば、
現代においては記録するための手段を簡単に利用できる中にあっては記憶力の重要性は以前ほどにはないのかな、そう思いますし、処理能力も外部のコンピューターを安価に簡単に利用できます。
選抜のための仕組みとして、依然として有用です。
ですが、昔の科挙もそうであったように、選抜された人材が社会の状況にきちんと適応できるかどうかは難しい。特に選抜の仕組みを通して身につくスキルと実際に要求されるスキルに乖離があるような状況ですと、ミスマッチが起こりやすいと思います。
学校、社会、受験、それぞれの仕組みが独立している、関連性が希薄であるから、
不都合があるので、歩み寄りが必要なのかなと思いますが、
如何でしょうか?