同じ”景色”をみて、違う”心象”を得る

漫画『るろうに剣心』の主人公・緋村剣心はかつて”人斬り抜刀斎”として、

長州藩に与して、明治維新のため幕府の要人を殺める暗殺稼業を担っていました。

同じく、長州藩に与して暗殺稼業を担った志々雄真というキャラもいます。

 

緋村剣心は幕末の動乱が終わると人を殺めないと心に誓い、流浪人となりました。

一方の志々雄真は仲間からも恐れられ、同僚である維新志士から暗殺されかけますが、生き残り明治政府を転覆させようとします。

 

同じ幕末の動乱を生き残った二人ですが、それ以後の生き方は対照的です。

ひとりは弱くても懸命に生きている人間を切り捨てることは出来ないと主張し、もう一方は『所詮、この世は弱肉強食』と主張します。

この作品は2人の対象的な考え方の対立が1つの見どころでもあります。

 

似たような場面は現実の世界でも出くわします。

同じ環境で育った人間、同じ学校で学んでいる同級生や会社で一緒に働いている同僚でも、人によって抱く思いや考えは異なります。誰一人として全く同じ考えを持つ人間はいないと言っていいでしょう。

 

でも、生まれてからのインプットにそれほど大差ない人間がその後、違う生き方をするというのは非常に面白い。これは何故でしょうか?

 

答えはわかりませんが、恐らくは生まれ持って心に内在する要素が違う気がします。

つまり、最初からそれぞれの性質は決まっていて後は環境によりそれを発現できるかどうか、ということだけ。それがしっくりくる自分なりの考えです。

 

それを才能と呼ぶのか、個性と呼ぶのか、センスと呼ぶのか、性格と呼ぶのか、

とにかく既に心のうちに設定されている”初期条件”が違っているからこそかな、

そう思っています。