自分の領分と他人の領分

自分がやるべきこと、抱えている課題は他人とは異なります。

自分のことは自分事、他人のことは他人事として明確に分けたいところです。

それを混同してしまうと、他人に迷惑をかけることになります。

 

「経済行為に道徳を持ち込むべきか?」

 

”働かざる者食うべからず”がモットーの日本においては、働くことは生きていくのに必要な食料を生産する、生活の利便性を向上させることを超えたところに位置づけられているようにも思えます。善悪は別として、目的とするところを達成するために多くの労力をかけることを良しとする文化です。損得勘定ではなく、神聖にして侵すべからず、というわけですね。心情に馴染む方も多いかと思います。

 

かつては食べるものをどうするのかはとても重要な課題でした。生きていくためには食べていかなければいけませんから、現代においても「どうやって食べていこうかな?」ということは重要ですが、生産能力の向上等の要因によって安価に栄養十分な食料を多くの方に届けることができるようになっています。

 

ですから、第1次産業に従事する方は年々減少傾向にあります。

より少ない人員で、より多くの食料を生産することが出来るようになった。

生産能力向上の努力には感謝ですね。本当に良い時代に生まれたものです。

 

www.stat.go.jp

 

そうなってくるとそれ以外のことに資源を割り当てることができます。

生産活動の意味が変わってきます。食べるものに困ることはなく、余剰資源の割当をどうするのか?、課題は昔とは異なります。社会が変容しているときには、行動の前提となる考え方の変更が必要ということですが、変化は急激に進むわけではなく、とてもゆっくりと進んでいるように私の目には移ります。

 

変化が急激であることと、変化に対応することは異なります。

多くのことが急激に変わっても、恐らく多くの人は戸惑うだけではないかと思います。

 

さて、余剰資源が生まれる、とてもすごいことですが余った資源を何に振り向けるのでしょうか。価値観の多様化とは余っている時間、つまり食べることに振り向けなくて済んだ時間をどうやって活用するかについて、多くの人が異なる考え方を持つということではないでしょうか?

 

それは各々違って良いはずですし、一律にこうしなければいけないということではないでしょう。社会で規範的な生き方を唱える方もいるかもしれませんが、それは他人の領分に対する余計な干渉です。誰もが好きに生きたいのですから、好きにさせればいいのです。

 

もちろん規範を破った場合の処罰は必要でしょうが、何でもかんでも規則そして慣習(恐らくはこれに悩まされている人が非常に多い気がします)に当てはめて、個人を制限するようなことは避けるべきかと思います。

 

自分の領分は自分でどうにかして、他人のことはあくまでも尊重するべき。

如何でしょうか?