社会という漠然としたイメージに対する感想

とりとめもないことを考えたりするのが好きなのですが、

ここでは「社会的に意義のあること」とはどういうことなのか?、

ちょっと考えてみたいと思います。

 

社会とは人が集まって形作られるものであり、それは”玉ねぎ”のようなものだと考えています。つまり、社会を構成する最小単位は個人であり、社会という実体はなく、

それは各々の心の中に想起されるイメージに過ぎないということです。

ひとりひとりの人間という要素を取り除いていくと、社会には何も残らないでしょう。

 

同じことが会社にも言えます。

会社を構成する役員や従業員、保有する資産(土地や建物、投融資など)は会社に付随する要素であって、会社というのは実体をもった存在ではないです。だから、自然人に対比して法人と言われるわけですが。

 

話を社会に戻しましょう。

 

だから、「社会に貢献する」、「社会の役に立つ」といった時の社会は具体的に何かを考えて発言されるものではないでしょう。漠然としたイメージとして頭の中にある社会という概念に対する具体的な何かを定義することは難しいでしょう。

 

それはひとりひとりの人間である!と言われる方もいます。

おそらくそれは間違っていないし、もしかすると正しいのかもしれません。

 

悲しいのは、社会に貢献するという姿勢を持つ人間が身近な人間を大切にできない場合が観察されることです。一概に言えませんが、社会の一つの要素に貢献するのが難しいのに、不特定多数の人間の役に立つことができるとは想像するのは難しいです。

(もちろん、一部を”犠牲”にして、全体に”貢献”する人間もいるでしょうが)

 

全体のために一部が犠牲になることは多くの事例で観察されますが、

その全体は一部の集合であり、一部の積み重ねが全体を構成しています。

ある行動が特定の目的を持っているときに、その対象となるものが一体、誰なのか?、

何なのか?について観察してみることは面白いかもしれません。

 

世の中には、自分の範囲を、家族や会社、特定の地域やグループ、国や世界に拡大することができる人たちもいます。その範囲のことはすべて自分事として捉えて、いいことがあれば喜び、悪いことがあれば悲しみ、といったように当の自分に起きたことのように扱うことができます。

 

それは素晴らしい結果も生むことがあるでしょうし、危ない面もあるでしょう。

 

危険な面としては、よく言われるように排他的な性格を帯びることがあります。

自分とそれ以外を分けて、”外”の人たちを攻撃してしまう、認めないといった姿勢を持つことです。多様性とは、同じ枠組み、共同体にどれだけの異なる考えや価値観を持つ人を受け入れる余地があるかということだと思いますが、まだまだ過渡期にあるのかもしれませんし、それは社会が変化する以上はずっと続く問題なのかもしれません。