秩序のための規則〜規則による息詰まり〜官僚主義者が跋扈する(´・ω・`)
規則や刑罰を定めることは集団に秩序をもたらすのでしょう。
大きな話では法治国家、法のもとに国を治めること、
身近な話では、家庭や学校、会社、近所などでみんなで守るべきことを決めてしっかりと守ること、規律が大切でありそれを維持することはとても難しい。
行き過ぎた規則による統制は官僚主義と揶揄される状態に陥っている場合もあります。
ルールや形式を守ることが逆に集団を殺してしまうことは興味深い。
どの程度がいいかは匙加減、良識的な判断のみが支えでしょう。
秦の嬴政は法家思想、つまりルールをしっかりと守りましょうということで、
中華全土を統一しようとしました。
ですが、行き過ぎた規則は人民を苦しめる結果となります。
すぐに瓦解してしまう結果となり、次の時代へと移ります。
結局のところ、自分たちはどうしたいのか、どのような人間なのか、何を望むのか、
何が嫌なのか、どういった状態が心地いいのか、といった人間に対する深い洞察なくして法律の設計など出来ないということではないでしょうか?
綺麗事ではなく、過去を振り返ってみた結論として、あまりに非人間的なルールを押し付けること、過酷過ぎるルールを徹底してしまうことは、がん細胞のように組織を喰い潰してしまいます。
それは時としてゆっくりと、ですが確実に進んでいるように思います。
どのような時代であっても、どのような組織であっても、
同じことが指摘されるのは本質的なところで人間は何も変わっていないということでしょう。それほど急激的に進歩するわけでもなく、技術は変われど、人は変わらず。
それはちょっと悲しくもなりますが、そういうものだと達観するだけです。
なぜ官僚主義に陥ってしまうのか、それは自分で何かの枠組みを作ること、
自発的に何かに取り組むこと、良識を見失ってしまうことに起因するのはないか?
そんな風に思うことがあります。
国民国家というものは国民一人ひとりが社会へ貢献する考えなしには成り立たない。
最近読んだ本にそのような記述がありました。
社会へ関わっているという感覚、自分でどうにかできる、もしくは他人と協力して何かができるという感覚が不足すると、ついついルールが自分の中の絶対の存在になってしまうような気がしてなりません。
それが時代にそぐわない”悪法”であっても、盲目的に信じてしまう、信じたいといったことから抜け出せていないようです。
集中すべきところに集中することと臭いものに蓋をするということは違います。
うちはイタチ曰く、分析には冷静さが必要だそうです。
落ち着くことから始めたいと思います(*´ω`*)