上流へのアプローチ
会計は経済取引を数値に移し替える技術です。
そして、それが妥当かどうかを検証する手続きが監査と呼ばれるものです。
一昔は、財務諸表、つまり最終的な結果がOKかどうかを資料などを拝見しながら、会社のご担当者の方にお聞きしながら確認するのが監査でした。
その後、それに至るまでの過程がいいのかどうかまでを含めて、検証しましょう!ということで、内部統制監査が制度化されました。
何事も原因と結果があります。結果として現れたことが現象を適切に表しているのかどうかは、それに至るまでの過程の妥当性に支えられます。
つまり、途中でおかしな”伝言”をしていれば、伝えられることは発生した現象を適切に反映しないでしょう。
だからこそ、内部統制をみる意味があります。
財務数値として報告される結果の妥当性をより上流に遡ってみてみましょうというわけです。
意思決定はより上流になるほど、起点に近づくほどに緊迫するはずです。
影響の及ぶ範囲がより広範に、より深度を増して伝搬するはずです。
妥当かどうかはつまりは、制度をどのように組み立てるのかに依存します。
個々人の自助努力も大切ですが、どのように全体として制度が整備されて、運用されるのかは大きな意味を持ちます。
求められるのは、もちろん信頼できる結果を生成する方式ですが、
理想とする、要求を高い精度で実現する仕掛けを個々の組織の事情を十分に斟酌して、
実装することは難易度が高いものです。
漫画『キングダム』が描くのは秦の始皇帝が中華を初めて統一するまでの過程です。
少々ネタバレ感もありますが、史実ですので記載しますのが、
ですが、その繁栄は長くは続きません。
何を持って国を治めるのか?、始皇帝は法治国家とするべく法家の考えを基礎としました。つまり、法律のもとに国を治めるという現代にも通ずる思想により、統一王朝を実現しようとしました。
が、あまりに杓子定規に法の支配を求めたために、すぐに綻びをみせます。
(他にも宦官が悪さをしたりといったこともあるようですが)
人々に馴染むことがなかった。もしくは急激に変化を求めてしまったということかもしれません。
(続く、漢王朝ではその反省を踏まえたようですが)
現代にも通じる教訓があるかと思います。
人間の本質にあった制度を設計することです。
多くの人間が集まった場合、各人の思惑を逐一、考慮していたら当然に組織は回らないでしょう。ですが、個人の意見を封殺するような体制では長期的な繁栄は難しいように感じます。
秦を統一国家にお仕上げた始皇帝も個人という単位では有能であったのでしょう。
ですが、組織はひとりでは成り立ちません。
例えば、家庭、学校、会社、町内、部活動、趣味のサークル、あらゆる集団は何を基礎にするか?、ということは真剣に考えてもいいように思います。
よく言われるように、『切れすぎるナイフは嫌われる』ものです、本当に。
能力というものは漠然としており、学校教育で身体に染み込んだ”処理能力”ですべてを測れるものではないでしょう。
(多くの場合に、それが悲劇につながっているように思います)
話が脇道に逸れてしまいました。
つまり、どのように制度を設計するのかは大切ですが、
あまりに人間の性質、組織を構成する人間の個性を無視するような方法は、
長期的に長続きしないですし、多くの場合において、悲劇的な結果に繋がっているように思うのですが、皆さん、如何でしょうか??