繁文縟礼かどうかは匙加減

制度を組み上げるときは、誰か一人が担当する場合もありますし、複数人で取り組む場合もあるかと思います。制度が完成して、実際に使ってみると複雑すぎて使いづらかったり、求める機能が実装されていなかったりといった”物足りなさ”が出てくるでしょう。

 

結局のところ、お互いの要求する事項は事前に擦り合わせることは出来るかもしれませんが、デザインはクリエイティブな領域ですので、どのように見せるか、ユーザーインターフェース、ユーザーエクスペリエンスといったことは、感性によるところが大きいでしょう。

 

事前に感覚的なところまで認識を共有できないのであれば、どこかしらで不平不満の声があがったときに、迅速にその意見を収集して、システムの変更を行うことが求められるでしょう。

 

実際に作ってみる→規則や機能が複雑すぎる→修正する→運用する→・・・

といったトライアンドエラーをどれだけ回すことができるかどうかが重要です。

 

ですが、システムにどこかしらの不備や使いづらさがあっても、実際のところは困ってしまったといった不満を抱えるだけで、改善できない場合が多いようです。

 

これは集団の意思決定が難しいことをよく表していますが、原因にアプローチできていることは少ないと周囲を観察して思います。表面的な現象に一喜一憂していることがほとんどです。いざ修正しようとしたときには、手遅れになっていることも少なくないでしょう。

 

歴史を振り返ってみても統治機構を周囲の状況に応じて適切に修正できずに国が滅んでしまう、もしくは他国にいいようにやられてしまうといったことは非常に多いです。

 

国という単位でみなくても、日常の風景のなかにそういったことはたくさん転がっています。普段行っている方法に対する不満や気づき、それを修正、改善という実際のアクションに繋げられるのかは、当人の匙加減といったところではないでしょうか?

 

繁文縟礼という言葉があります。規則や形式が複雑すぎて困ってしまうことを指して言われる言葉ですが、必要に駆られて規則や形式を整えてしまったのに、それがかえって当事者を苦しめるのはおかしな話です。

 

システムを作る方々は、自分たちだけが使うのではなく、

他にも色々な方々が使う場合には、どのような水準で設計するのかということは、

注意しすぎて過ぎるということはないでしょうし、修正するための方法も同時に、

設計しておくことが求められる、と思います。