気持ちから離れて評価すること

学校や会社である人物を評価するに当たっての基準は有って無いようなものが殆どといった印象です。一応、それなりの目安はあるかもしれませんが、実際は評価者の匙加減によるところしかないのではないでしょうか?

 

「彼は優秀だ」

「あいつはダメだ」

 

このような意見をあえて評価と呼ぶならば、それは”印象評価”といった言葉で形容できるでしょう。評価者の被評価者に対する個人的な感情を前提とした気持ちを告白している、あえて仕事を絡めて個人的な好き嫌いを表現しているといってもいいかもしれません。

 

人間、実に多様な要素から成り立っている存在ですから、多種多様な尺度で評価するのが筋ですが、実際には”もっともらしい”評価尺度が採用されます。学校のテストなどはいい例でしょう。

 

別にそれが悪いわけではありません。でも、他の見方もあるよね?、それを忘れたくないだけの話です。人間は育ってきた環境や周囲の人間の意見に大きく影響される存在ですから、そこで育まれたものの見方だけを利用して評価しがちです。

 

皆が納得するような評価の基準を設けることは恐らく出来ないでしょう。どうしても感情が前提となります。

 

前にどこかで、「感情があって思考が始まる」と聞いたことがあります。最近、事実をありのままに認識しなさい!、ファクトをきちんと把握しなさい、といったことがメディアなどでよく聞かれますが、認識時点で勝手にふるいにかけてしまっているのかもしれません。

 

「人は見たいものだけを見る」

-ユリウス・カエサル

 

気持ちを基にした解釈を何重にも重ね合わせて出来上がったものが、今の社会といえるかもしれません。それはそれで面白いですね。