何に意義を感じるのかは人によって千差万別

食事をとることに楽しみがない人は少ないでしょうが、

そんなに関心がない人も一定数はいるでしょう。

 

スポーツ観戦が好きな人は熱狂的に好きですが、

あまり関心が無い方もいるでしょう。

 

学ぶことに意欲的な人もいれば、

あまり勉強は好きではない人もいるでしょう。

 

このように何にやりがいや楽しさ、喜びや意義を感じるのかは人によって、

千差万別であり、一概に言えるものではありません。

 

これは個々人の好みに収まっているので、大きな問題にはならないかもしれません。

では仕事に話を移すとどうでしょうか?

 

汗水たらして働くことが美徳とされる日本です。

客観的にみて動いていることや何かを議論していることが、

とても価値を持つような風潮があります。

 

これは労力と言い換えてもいいかもしれません。

確かに労力をかけることは何かに習熟するには欠かせないと思います。

 

でも労力≠成果ではないはずです。

多くの時間と手間をかけたが、成果は思ったほどあがらなかった経験が

ある方は多いでしょう。

 

私も「結構、頑張ったんだけどな・・・(´;ω;`)」

と感じたことはまぁまぁあったりします。

一方、周りの人間をみていると、それほど労力をかけていないのに、

成果をあげている人もいます。

 

「人知れず努力しているんだよ!!」と言われるとそうかもしれませんが、

ここで言いたいのは、労力をかけたことや努力したことと、

実際に目標が達成できたこと、望む成果が得られたことは別の話ということです。

 

もちろん、努力することの大切さは誰もが否定しないでしょう。

でも、成果がどうだったかの評価とそれに至る過程は分けて考える必要があります。

 

過程を大切にするというのは、もちろんそのとおりだと思います。

一方、成果をあげたひとには良い評価、そうでなかった人には相応の評価、

それが正しいはずです。

私もそうですが、成果があがらなかったのに、成果を上げた人と同等の評価であっても、それは公平ではないと思いますし、嬉しくはないはずです。

 

公平性が大切であり、情けをかけることは美しいことですが、やはりいびつです。

 

少し話が変わりますが、どこを評価ポイントとするのかも人それぞれでしょう。

処理能力がある、人との関係性をつくるのがうまい、場を和ませるのがうまい、

ぶっきらぼうだけど慎重かつ丁寧、など色々あります。

 

例えば、売り手と買い手の望むことは違うかもしれません。

電化製品をつくっている会社で、多くの機能を盛り込むことが製品の魅力があがることであると考えているとします。でも、買い手は必要最小限の機能だけに絞ってほしいと思っているかもしれません。

 

このように立場が違えば、求めるものも違います。

売り手の中の人間内でもそれは違うこともあるでしょう。

針の穴を通すように細かいことまで拘るひとがいる一方、

大枠を捉えていればOKという人もいるはずです。

 

それは良し悪しではなく、単なる違いでしょう。

でも大体の場合において、それは神学論争の領域の話となってしまいます。

私はこう考える、あなたは間違っているといった姿勢はよくありません。

 

多様性が昨今のテーマですが、多様な考え方を認められるのかは

成熟度そのものだと思います。

 

多様性を認めることは、違いを受け入れることでしょう。

各々がどこまで受け入れるのか?

それが各々の成熟度ということではないでしょうか?