何が大切か、何が重要か? ← 納得できる説明は可能か?
物事に取り組む際に、何かしらの判断基準で取捨選択をすることになります。
時間は有限ですし、処理能力にも程度の差はあるけれど、限界があります。
好き嫌いや金銭的な損得、やりがいや心地よさといった複数の観点から、
自分の資源をどこにどれだけ振り向けるかの選択をすることになります。
1日の中でもその日の体調や気分や緊急性などを考えて、1日をどのように過ごすのかを組み立てていくことになります。
誰かが与えてくれるのなら別ですが、大抵の人は自分で選ぶ自由があります。
それを重荷に感じるか、素晴らしいと感じるかは人それぞれだと思いますけど。
何かを選んだ時に他人に納得のいく説明をする必要があるときもあります。
経営者であれば、従業員や取引先、株主や債権者の方々に納得のいく説明が求められます。
学校の先生であれば、各々違う個性を持った子どもたちにどのような教育方針で指導にあたるのか、子供や保護者に説明を求められたら、答える義務があると思います。
このように物事を選択する権利が与えられて、それを行使することによって他人に影響が及ぶような場合、「説明責任を果たせ!」と追求されることもあります。
権利と義務の関係で言えば、義務として説明責任があることになるでしょう。
個人の日々の意思決定はどうでしょうか?
何かを選ぶ時に、自らが望んだことですが、それを自問自答して納得のできる”答え”までたどり着ける人はどれだけいるでしょうか?私はどちらかと言えば、何となくの気紛れで色々決めてしまうことが多いです(そしてそれを後悔しません)。
自分の裁量の範囲が不条理に狭められる、邪魔されることに嫌悪感を覚えることもあります。それは他の人も同じように思います。
進学先を親に反対される受験生は良い例ではないでしょうか?
自分がどこで学ぶのかは当人の自由ですが、”出資者”たる保護者の同意が必要不可欠です。意見の相違は対話により埋める必要があります。
就職先を決めるときにも親が意見してくる場合もあると聞きます。
我が子の安定、安心を願って公務員になることを求める事が多いと聞きます。
それぞれの立場で思うことや考えること、先の見通しや気持ちの問題として異なる意見に至った場合、それは本人の覚悟の問題かもしれません。
社会で生きていくと多くの説明が求められることがあります。
それぞれの状況で何が重要なのか、何故そのような結論に至ったのか、
どうしてそのような状況に陥ったのか、たくさんのことが求められますが、
適切な答えを自分の言葉で説明することが余計な争いを生まない、
最善の方法であるように思います。