解釈・注釈を繰り返すことで

過去に提唱された思想その他表現形式は後年、誰かによって解釈・注釈されることがあります。どんな思想でも発展することを前提とするならば、以前にあったものを”利用して”更により良い思想を打ち立てることは当然の流れかもしれません。そうやって、様々な領域で解釈・注釈を重ねることで現在の世界をつくり上げたと言えます。

 

ただし、既存の考えを踏襲したうえで新しい考えを提唱したとしても、それが以前の考えをすべて包含するとは限りません。それまでの蓄積をきっかけとして、既存のものとは全く新しい考えを生み出すこともあるでしょう。過去の延長上にあるのが現在ですが、その現在は半分はそのような逞しい想像力の産物かもしれません。

 

例えば、既存の理論をA、それを踏まえて提唱された考えをBとします。

当然に以下のような関係になるでしょう。

 

A→Bなので、A∈B

 

さらに、それに連なる考えC,D,Eについても、

 

A→B→C→D→Eなので、A∈B∈C∈D∈E

 

のような関係を想像するでしょう。

 

でも実際は、Aを元にしていると言いつつも、それに連なるB,C,D,E・・・が全く以前の考えとは異なるものである場合もあり得ます。

 

「世界は事実ではなく、各々の解釈により成り立っている」

 

どこかで聞いた言葉ですが、そのとおりかもしれません。実際の生活の中でも、同じ事象を観察しているのに、異なる感想を抱くことは普通の話です。それが示すことは、世の中は現実に起こったことよりも、それに対する各々の解釈が強く影響を与えているということです。

 

「どのように世界を読み解くのか?」

 

ハンス・ロスリング著『FACTFULNESS』が話題になったことからもわかる通り、現状をどのように認識するのかについて、かなりの程度、誤っている若しくは実際とはズレているということがわかります。

 

仏教の唯識思想ではないですが、「認識により世界は成り立っている」のかもしれません。だとすれば、どのように認識するのかについて、より良い方法を模索していくことになるのですが、誰もが鋭敏に物事を解釈できるようになる世の中は到来するのでしょうか?