何事も原理主義に陥ってはいけない!

引用元:デジタル大辞泉

原理主義

一般に、基本的な理念や原理原則を厳格に守ろうとする立場。市場原理主義など。

 

自分の考えや行為に対して自信やプライドを持つことは大切なことだと思います。それが生きる上で良い結果に繋がるとも思います。

 

一方、自分の考えや行為に疑問を持つ姿勢も同様に大切だと考えています。

 

「これは素晴らしい!」と思う一方、「これホントに価値あんの??」と懐疑的にみる視点も同居させたいところです。

 

何故か?

 

単一の判断基準や尺度しかない場合、それと異なる考えや文化を否定する、攻撃する姿勢に繋がるからです。これは極めて危険な状況です。多くの争いの原因は相容れない考え方を否定することにあると言っても過言ではないでしょう。

 

例えば、受験勉強を考えてみましょう。

 

ある生徒は「受験を頑張らないといけない!」と考えて、一生懸命に勉強しているとします。別の生徒は「音楽が好きだから、ギターの練習をしたい!」と考えているとします。

 

2人の生徒が同じ学校の同じクラスにいる場合、話は全くといっていいほど合わないでしょう。何か目標を立てて、それに向かって努力しているといったことではどちらも同じです。どちらも美しいと思います。

 

が、考え方が異なる人間と関わっていく必要があるのが社会です。お互いの考えを尊重できるかどうか、それとも対立してしまうか。何が求められるのでしょうか?

 

私は、自分の中に多様な蓄積をつくっていくことが大切だと考えています。

 

「勉強だけしていてはいけない」、「仕事ばかりではいけない」と言われることがあります。言っている本人は大した考えがない場合もあるでしょうが、これは結構、的を得ている発言です。

 

自分の中に複数の価値判断の基準を同居させて、それらを組み合わせることで社会を解釈しようとすること。善悪の判断は別の次元です。ここでは多様性の許容の話をしています。

 

「そんなのわかってるよ」

「当たり前の話だろ」

 

そう仰る方もいるでしょう。ですが、本当に日々の暮らしの中で実践できていますか?周囲の挙動を観察していると、わかっていても実践できない。そんな状況はよく目にします。

 

これを段階に分けるなら、次のようになるでしょう。

 

1)そもそも問題を認識できていない

2)わかっているが、身体がついていかない

3)上手く表現できている

 

望ましいのは3)ですが、大抵は1)もしくは2)の段階で止まっているようです。繰り返しますが、自分の正しさを疑わない人間ほど怖いものはありません。そういった人間は対話の余地がありませんし、自分と異なるものを平気で攻撃します。

 

そしてそれは自分が善良だという認識の下に行われます。「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉がありますが、官軍が正しくて、賊軍が間違っていた、なんてことではないでしょう。どちらもそれなりに考えがあったはずです。

 

それを色分けしてしまう、武力で制圧する、制度で弾圧する。実に怖いですね。歴史を学ぶ一つの利点はそういったことが繰り返される事例は、数限りなく発生していることを認識できる点です。

 

これから先も世の中は変わりますが、社会を”静止画”として観るのではなく、”動画”として捉える。対話の余地があるという考えは、心の片隅にでも置いておきたいものです。