社会が高度化することが教育に与える影響
現在の日本では、小・中・高・大と進んだ場合、学習する機会として与えられる期間は6・3・3・4年の合計16年も与えられることになります。理系では大学院へ進学することも多いでしょうから、修士課程2年、博士課程3年を加えると、21年間の期間、学習や研究のために時間を割くことになります。とても長い時間、学ぶことが出来ることの是非はともかくとして、少なくない時間を学ぶことに費やすことになります。
社会が高度化してあらゆる分野が複雑化する、技術的に発展することは、利用者側から見た場合とサービスの提供者側から見た場合とでは意味するところが違うでしょう。
利用者は安価で使いやすい、事前に詳細な知識や技術などを備えていなくても、それなりに使えるような”道具”を利用することで、容易に生産性を向上させることが出来ます。
一方、サービスの提供者側から事情を見ると中々に大変かと思います。
要求されるサービスの水準がぐんぐん上がっていくことは、キャッチアップできない者の脱落を意味することになります。経済の発展は健全な競争があることが前提ですが、際限がないことは良いことでもありますし、ちょっと疲れてしまうことかもしれません。
当然に学習することも大切です。
人類は有史以来、あらゆる分野の知識を蓄積してきました。
これまであった知識に少しずつ新しい知識を積み増すことを続けてきたわけです。
それを利用できたことで今日の生活があるわけですが、すべてのことを学ぶ必要はないにせよ、領域を限定しても学習すべきことは増えていくことになります。
学校という制度の目的をどう設定するのか?、それが重要になってくるような気がします。人格形成のために必要だと考えられたことを教えること、興味関心がある分野を自由に学ぶこと、将来、就く職業に役に立つ知識や技術を教えること等、どのような”社会人”になってほしいのか?、漠然としたことではなく、より個々の気質を考慮して教育を考えることが必要だと思いますが、現状の学校の制度では難しいところもあるかと思います。
どのような教育が望ましいのか?、みんなが一生懸命に考えるべきことではないかと思うのです。学ぶことは与えられることではなく、自発的に行うこと、そのような意識付けが必要です。
話がずれましたが、社会を発展させていくために求められる知識の水準が高度化していることは確かです。何事も進歩していくものですから、当然といえば当然です。
どのような知識が必要なのか、何を省いて何を選択するのか、
自分で主体的に選べる環境が望ましいと思うのですが、難しいでしょうか?